toggle
大阪市南森町駅より徒歩2分

院長コラム

私のいない瞑想

2021-10-17|あるがまま / 瞑想
Pocket

こんにちは!

\(^ω^)/

 

夕べからの雨が止んで、今朝は徐々に晴れ間が覗いています。

秋の空は気持ちいいですね~

私は朝から年一回の健康診断に行って、その後、お散歩してきました~

 

(*´∀`)

 

こちらは野良猫の「クロエさん」(地域猫です)。

 

 

久しぶりに会ったら、毛がボサボサ団子になっていて、まさに「ホームレス猫」やん

(>_<)

 

ので、会える日にちょっとブラッシングさせてもらって、栄養つけてもらって、半月程経過しまして、少しずつ元気になってきた感じです。

 

さて。

 

 

前回は、「あるがまま」を嫌う人間たちのことを書きました。

「あるがまま」って赤ちゃんの頃はだれでもそうだったのに、み~んな忘れてしまったもの。

それを思い出す方法として「瞑想」についてお話ししました。

 

 

昨今の瞑想は、「マインドフルネス瞑想」としてビジネスパーソンの間に結構広まっているようで、アプリなどもありますし、

やったことある人も結構いらっしゃると思います。

 

ですが、

これ、なんか違和感があるんです〜

 

┐( ̄ヘ ̄)┌

 

瞑想本来が何をするためにやるのか、っていうところなんですが。

◯ストレスを和らげ、疲れない自分になるため?

〇集中力を増して結果を出すため?

〇人生で成功するため?

 

まぁ、それが悪いっていうのではないのですよ。

一時的に楽になったり、ストレス減らせたり、やる気になったり、成功した気になったりして、自己承認願望は一時的に満たされるかもしれない。

 

けどね、

永遠にそれを繰り返す羽目になりません?

永遠に一生懸命、瞑想して、成功するための準備して、成功して、目標達成して、束の間の達成感は得られたにしても、

次の日にはまた新たな成功や目標を作って、それに向かって進まなきゃなりません。

 

つまり、瞑想は今日、明日…もっともっとと苦しみを生み出す道具となってしまっていませんか?

 

楽になるために始めたはずが、ちっとも楽にも、幸せにもならない瞑想に…。

 

┐( ̄ヘ ̄)┌

 

これはつまり、「瞑想」が「自己実現」=「エゴ」を強化するようになってしまっているからで、

「エゴ」がどんどん大きくなってしまえば、そりゃ幸せとはほど遠い、闘いの日々になってしまっているのです。

 

 

「私」が消える瞑想を

 

というわけで、じゃあどんな瞑想が良いのか? といいますと、それはズバリ、

 

闘わない瞑想です。

 

”ありのままにくつろげる”瞑想です。

 

もし、ありのままでいられるのだったら、それは瞑想という形でなくてもよいでしょう。

 

ただ、ありのままでいる。

 

その場に在って、「自分」が消え、その場と一体となっている状態。

それは、音も、そのほかの感覚も、まったく「意識にのぼらず」、

ただ「在る」だけです。

 

そういう状態であれば、そこに「私」という「エゴ」は存在しません。

エゴが消えてしまえば、それは本来的な「赤ちゃん」の状態で、

「私」と「それ以外」といった境界は消えて、ただ一つの世界が在るだけになります。

 

 

抽象的すぎてわかりにくいかもしれませんが、

 

試しに、いま、目の前に見えるものを、名前もつけず、ただぼんやりと見てみましょう。

目に見えるものは、形があっても、たとえば「茶色の」「丸い」「椅子」「白い」「壁」とか名前や修飾語をつけず、ただ見ていましょう。

耳に入ってくる「音」はただの音です。いや、音という名称もなく、ただの「それ」です。

そのような状態にあった時、私が消えていたことに気づくでしょう。

 

誰だって、束の間であれば、「私」を消すことはできます。

ただ長続きしないのですが。

 

長続きしなくてもいいです。3秒でもいいので、その状態に在るようにしてみましょう。

初めは3秒で「私」が戻ってきたとしても、何度も続けるうちに、少しずつ「何もない状態」が長く続くようになります。

 

「私」が消えること。

それが本来的な「瞑想」だと、思います。

 

 

エゴが消えること。

「私」が消えること。

 

「私」が消えた状態で、そこに残ったものは何なのでしょうか?

 

「私」ではない何か、です。

 

「私」が消えた時、「私」が抱いている願望も消えます。

死ぬまでずっと在るはずと思っていた「私」が消えてしまうのです。

ずっと信じていた「私の人生」すら消えてしまいます。

 

「私」が消えた後、そこに残るものは何?

 

それは言葉にならないもの、「それ」「ひとつなるもの」「全体」です。

 

 

そこには、すべての「欲望」「成功」は消え、「幸せ」すらありません。

ただ「在る」だけなのです。

 

もし、この「在る」ことこそが、本当の私の姿だったとしたら、

「私」というエゴは夢だったとしたら、

 

 

おそらく、もう「夢」を本気で追いかけることはしなくなるでしょう。

あるいは、「夢」を「夢」として気楽に楽しむようになるでしょう。

 

 

それが人生の「始め」であり「終わり」です。

人生からの解放です。

 

もう瞑想はいりません。

 

 

\(^o^)/

 

 

関連記事